hitonarisan’s diary

主に四柱推命に関する記事をアップしていきます。

脳死について

およそ10か月ぶりの更新になります。

 

色々ありまして中々更新も出来なかったのですが、またこれから日々の出来事や思った事、四柱推命に関することを少しづつでも上げていきたいと思っておりますので、ご訪問いただければ嬉しいです。

 

さて前回はコロナ禍での安倍政権の対応で、次の更新では安倍首相の命式を観ていく予定でしたが、長らくブログを更新しなかったので、菅首相に変わっちゃいましたね(>_<)

 

という事で、安倍首相の命式を観るのはまたの機会にさせていただきたいと思います。

 

それで今回は脳死について考えていきたいと思います。

 

タイトルとしては少し重めなのですが、なぜ今回はこのようなタイトルにしたのかと言いますと、実は先日義父が脳死と診断されまして、その件について感じたことを書いていこうと思います。

 

元々義父は高齢という事もあり、介護も必要な状態だったため施設に入居しておりました。また体調もここ最近よろしくなかったので、検査のために妻とお義母さんが義父を病院へ連れて行ったのですが、検査後に容体が悪くなりICU(集中治療室)で治療を受け、家族も一度は帰宅したものの夜中に心肺停止となり、蘇生処置を受けたところ心臓は動き出したのですが脳波が出ておらず、その後脳死という説明を受けました。

 

今までは脳死というのは、申し訳ないですが他人事のような感覚で捉えていたのですが、いざ身近な人がそうなった時はさすがに命の重みというものをまざまざと見せつけられた気がしました。

 

面会に行ったところ、確かに心拍数も正常と変わらずで、血圧も生きている時と変わらないという事でしたが、『このまま意識が戻ることはまず無いでしょう』というのが主治医の先生のお話しでした。

しかし思っている以上に生きている様な感じで、昏睡状態にいるだけでまたいつか目覚めるのではないのかな?という感じさえしています。

 

今後は気管支に直接酸素を送る装置を付ける手術を行って、受け入れ先の病院を探してそちらで治療を続けていく方向ですが、実際は生きてはいるものの意識も感情も無く、会話も出来ない状態が続いていく事になります。

 

今回の事で、生きる意味というものを非常に考えました。

楽しむことが何も出来ずにただ延々と生きることに意味はあるのか?

このまま心臓が止まるまで、何も出来ずにただただ延命だけをさせて良いのか?

しかし現在の法律では、今の延命措置を強制に止めさせる事は出来ず、どうしようもないジレンマと向き合っている状況ですね(@_@;)

 

人は本来であれば、心と体が伴って初めて生きていることを実感するような気がしますし、生きるとは本来『活きる』という事ではないかと思います。活き活きと活動している事で生きるという事を実感するものではないのかな?とか考えたりします。

 

とはいえ、義父は高齢という事もあり、出来れば早く楽にさせてあげたい気持ちは強いのですが、もし脳死と診断されたのが自分の子供だったとしたら?最愛の恋人や夫、妻だったとしたら、それもまだ若く特にお子さんの場合は子供が幼かったとしたら、本当に延命措置を止めさせて早く楽にさせてあげたいと考えるのだろうか?

やはり意識はなくても生きているのだから、もしかしたら少しでも一緒に居たいと考えるかもしれません。

 

今回の事で、命の事を少し真剣に考えるきっかけとなりました。